« 今週のほりう値(4月2週) | Main | PS6進化論 岡田有花照れる »

Apr 06, 2004

中央競馬と地方競馬 その1

 中央競馬と地方競馬は似て非なる違う物とされています。

 今でこそ安藤勝巳騎手が地方から中央に移籍し、大旋風を巻き起こしたり、ハルウララに武豊騎手が乗ったりすると言う時代ですが、もう少しだけ前。具体的には1995年まで、殆ど交流と言う言葉は聞く事が無かったと言います。

 この二つの世界は、オグリキャップやライデンリーダーなどの名馬ですら越えられない壁がありました。今じゃコスモバルクが一躍クラシックのスターダムにのし上がる時代なので、最近競馬を知った人々には、考えられないような状況かもしれない。

 では、この中央競馬と地方競馬。同じ日本の競馬なのに何故こうも違うのか。今回からシリーズでそれをまとめようと思います。

■第一部■ 日本における近代競馬の誕生と中央競馬

 日本では、古代より流鏑馬(やぶさめ)や競馬(きそいうま)と言う様な神事や祭り事の関係で、多くの馬術競技のようなものが存在しました。701年に、朝廷への奉納と言う形で、記録に残る最古の競走が行われているんだとか。

 近代競馬、ここでは、現代のようなレース形式を持つ競走、と言う位置付けにしておきます。

 この近代競馬が最初に行われたのが1860~61年。横浜に居た外国人が、娯楽の延長で開催していたと言う記録が残っているそうです。

 1860年と言えば、今、大河ドラマでやっている「新選組!」において換算すると、あの有名な池田屋事件が1864年ですから、その更に4年前。ドラマでは第8話、1862年に近藤勇が、始めてイギリス人に対面すると言う描写がありました。

 その後、横浜のこの趣味の集まりをもっと大きくしようぜ。と、当時の外国人も思ったのか、「横浜レース倶楽部」と言う、日本発の競馬クラブを設立します。そして、1862年5月。記録として初めて「競馬」が開催されます。日本の近代競馬はここからスタートしたと言えるでしょう。

 1860年代、日本は江戸時代。14代将軍徳川家茂から15代徳川慶喜に変わる、大きな意味を持つことになる時代でした。1862年にフランスでロンシャン競馬場が誕生し、アメリカでは1866年コカコーラ新発売、ヘンリー・フォードが誕生したのも1863年です。日本なら夏目漱石が1867年に誕生しています。

 競馬の世界で、大種牡馬を振り返って1860年代に迫ると。今、5代血統表から消えようとしているナスルーラとその父ネアルコがそれぞれ1940年、1935年生まれ。遡ってファラリスが1913年生まれ。エクリプスから枝分かれしたヒムヤーが1875年、ハンプトンが1872年生まれ、と言いますから時代を感じますね。

 さて、横浜レース倶楽部。開始された当初、当時の輸送手段、ヨーロッパからの船旅を経て、おいそれと趣味の為にサラブレッドを連れてくる訳には行きませんでしたから、日本馬に加え、中国系馬とでレースを行っていたそうです。

 その内に1866年には根岸競馬場が完成し、横浜レース倶楽部は、財政難に陥る1870年代後半になるまで、色んな紆余曲折を経ながらも開催を続けていきます。

 とは言っても、乗馬の延長線上のような、とにかく乗馬技術を競うための物で、どっちかと言うと騎手主導のものだったようです。距離は400~2800mと言うから今よりレパートリーは富んでいたようです。

 1880年に横浜レース倶楽部において、1875年に最初の日本人馬主となった軍人、西郷従道(兄は西郷隆盛)らが、横浜レース倶楽部改め、日本レース倶楽部を設立。その後、函館や小倉にも同様の競馬クラブが誕生し、15個ものクラブが誕生していくことになる。

 これらクラブの流れを汲むのが中央競馬となるのは、これから30年も後の話だ。

 日本レースクラブが誕生し、1800年代も末期になり、明治となると、ある事実が浮かび上がる様になり、無視できない様になりました。この事で競馬は、騎手の腕だけが物を言う、紳士の嗜み的な類から、ある目的の為に大きな変化を遂げることになる。その事実とは……。

 日本の馬は大陸の馬よりも遅かったのだ。それもかなり。

 諸外国との交流や、日清・日露戦争が行われる過程で、日本人は気付いてしまったのだ。元々種として速度の出なかった日本の馬は、サラブレッドやアラブ等の速度の為の改良が行われた馬よりかなり遅く、大陸の純粋種にも劣っていたのだ。

 結果。今後の戦争の為、より速くする事を目的とした改良が求められるようになった。

 まず手始めに1895年、14頭のサラブレッドが豪国から馬産地に輸入された。それまで、日本には徳川慶喜に寄贈される等したアラブ系の馬は居たが、サラブレッドはこれが初めてとなる。その内、競走馬から純粋な日本馬は姿を消して行き、サラブレッドとアラブが、殆どを占めるようになるのだが、これはまた別の話。

 次に競馬は、軍馬育成の為の「国策」と言う位置付けの再編成が行われた。1910年の事だった。

 競馬と言うシステムは、15個あったクラブを11個に統合し、そのクラブを国が直営する事で、速さを競い、優秀な軍馬を生産する手段として大きな変化を遂げていく。

 この11のクラブこそがJRA中央競馬の前身と呼ぶにふさわしいだろう。

 こうして、1916年頃には第一次競馬ブームが到来する。しかし、投機性も強く、身を滅ぼすとして直ぐに廃れていく。

 ……、話は逸れるが、うちの婆さんが言うには、若かった頃、村に居た当時60歳くらいのおっさんは、若い時分に馬券を買うために農耕馬を手放し、家族まで手放したと言う伝説を持っていたとか居ないとか。

 そんな苦難を乗り越え(?)残った明治の競馬ファンには、博打を超えて無茶をする人が大変多かった。政府は、世を乱すと言うを理由を付け、突然馬券販売を刑法で罰せるようにした。ここから14年にわたって馬券の販売が停止するなど、競馬会に逆風が吹いた時代もあった。

 しかし、馬券無き競馬の世界は、今の様に定着しておらず客が入らなかった。客が入らないと言う事で生産者のモチベーションの低下が懸念されるようになり、結果的にまた馬券販売は再開されることとなる。

 こうして競馬は根付いていくと思えた。

 しかし……。競馬を主催していたのが大日本帝国。戦争の影が、徐々に競馬会を包んで行くことになるのであった。

つづく

#ふー、疲れた……。直ぐ「その2」を書きたいんですが、明日は試験勉強をするために止めときます。

|

« 今週のほりう値(4月2週) | Main | PS6進化論 岡田有花照れる »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/1924/402745

Listed below are links to weblogs that reference 中央競馬と地方競馬 その1:

« 今週のほりう値(4月2週) | Main | PS6進化論 岡田有花照れる »